略年表

 

1883年(明16)  1月24日南砺市福光新町(旧福光町)で出生

1902年(明35)  早稲田大学入学

1906年(明39)  早稲田大学政治経済科卒業、報知新聞社入社

1919年(大 8)  富山県議会議員に当選

1928年(昭 3)  衆議院議員に当選、44歳、1969年(昭44)の引退

           まで連続13回当選

1929年(昭 4)  農林大臣秘書官

1932年(昭 7)  農林参与官

1939年(昭14)  農林政務次官

1945年(昭20)  東久邇宮内閣に入閣、厚生大臣、文部大臣。幣原内閣に

           入閣、農林大臣として 第一次農地改革法案を手がける

1953年(昭28)    改進党幹事長

1954年(昭29)  日本民主党政務調査会長

1955年(昭30)  第二次鳩山内閣に入閣、文部大臣、自由民主党顧問

1957年(昭32)  石橋湛山首相の個人的特使として東南アジア歴訪

1959年(昭34)  自由民主党第6回党大会で繰り上げ総裁公選、岸信介氏と

           争い、320対166で敗れる。

            中華人民共和国訪問、以降1962年、1964年、

           1966年、1970年にも訪問

1962年(昭37)  欧州共同市場を視察、早稲田大学名誉法学博士

1964年(昭39)  勲一等旭日大綬章を親授

1966年(昭41)  福光町の第1号名誉町民に決定

1969年(昭44)  次期衆議院議員選挙不出馬を表明 

1971年(昭46)  8月21日 死去88歳 従二位勲一等旭日桐花大綬章を

           追贈 

日中友好

 松村先生は、昭和34年には周恩来首相の招きで保守党政治家として戦後初めて中国を訪問しました。

 その際、新生中国の変化を見た先生は、日中国交正常化の必要性を強く感じました。戦後の訪中は5回にも及び、最後は老躯をおして87歳のでの訪中まで、生涯を日中の関係改善に捧げました。

農地改革

 戦争に負けた日本は大変な食糧不足になり、先生は1945年(昭和20)10月幣原内閣の農林大臣に任じられるとすぐに、食糧危機解決のためには地主制度を廃止して農地を小作人に分け与えることが必要と判断して、「改正農地調整法案」を提出し、閣議での修正を経て同年12月に国会で可決されました。これは第一次農地改革法案と呼ばれています。

 農相を辞されたのち、先生本来の考えに一層近い第二次改革法案が1946年(昭和21)10月に国会で成立し、この結果、自分の農地を耕す自作農が一気に増加したのです。

国営小矢部川農業水利事業

 この地域を貫流する小矢部川は、古来、農業や水運に利用してきました。先人達は、農業用水を長年にわたり整備してきましたが、夏場の水不足や大雨時の河川の氾濫は深刻でした。この窮状を訴える農民に答えようと松村先生は、ダム計画で水没、廃村となる刀利集落等の人々に直接膝詰めで説得に当たられました。先生の地域の発展を願う熱い思いに人々は心を動かされ、計画の中心となるダム建設に着手することができました。現在、関係者がダムに集まり、毎年8月先生の功績を受け継がんと先生の遺徳を忍ぶ水神祭を行っています。

 事業の概要は、刀利ダムは、昭和29年に予備調査が始まり、昭和35年から昭和42年かけて建設され、流域農家約4000戸、3780.3ha分の灌漑用水を確保し、水力発電の水源としても活用されています。

松村謙三先生に関する主な参考書

 

 松村謙三 『三代回顧録』東洋経済新報社1964年(昭和39)元北日本新聞に連載

 田川誠一 『松村謙三と中国』読売新聞社1972年(昭和47)

 遠藤和子 『松村謙三』KNB興産出版部1975年(昭和50)

 松村正直等編 『花好月圓-松村謙三遺文抄』青林書院新社1977年(昭和52)

 木村時夫(編著)『松村謙三 伝記編』(上・下巻)㈶桜田会1999年(平成11)

 木村時夫(編著)『松村謙三 資料編』㈶桜田会1999年(平成11)

 佐高信  『友好の井戸を掘った人たち』岩波書店2013年(平成25)